かねてから不思議に思っていたことがある。アルファロメオ 147にかつて乗っていた人々のその褒めっぷりは異常ではないか。確かに大ヒットした車種ではあるが、それはいわゆるノスタルジーではないのか。愛によって目が曇っているのではないか。つい先日まで盲目的にMiToを愛していた筆者だからこそ、そんな風に思ってしまうのだ。
先日実施した「クルマで行きますオフ会#16〜西蔵王公園でまったり〜」の際に、あおさん所有の147 2.0TSに試乗させてもらうという僥倖を得た。2.0ツインスパークエンジンにセレスピードでRHDというザ・モスト・ポピュラーな組み合わせ。総走行距離は5.5万kmを超えているが、ノウハウ豊富なイデアルさんが対処アンド予防メンテを施した個体。「5.5万km?じゃあ次は○○がイカレるね!」とか「その次は▼▼(笑)!」などと外野は無責任に「147あるある」を連発するが、あおさん所有となってから数千kmをすでに走ってまったく問題なし。あおさん大満足の1台とのこと。同時期の同社のクルマ、156は筆者もそれなりに運転した経験がある。実に運転体験の濃密なクルマ。あれと比べてどうなんだという興味もある。棚からボタモチ的な試乗だが、何はともあれ147信望者の気持ちを筆者的に解き明かしたいと思う。
今回のオフ会、
本当に写真を撮っていないンすよ。
これがあおさんの147のエンジンルーム
ということで座ってみる。最低限のポジション調整をする。あおさんのポジションからはシートの前後を少し調整するだけですぐに決まった。ハンドルやペダル類のオフセット検分は正直忘れていた。筆者が鈍感なだけかもしれないが特に気にならなかった。レザーシートは鷹揚な造形でホールド感は高くない。ここで目の前の景色を眺めると、筆者には馴染みの「アルファロメオのコクピット」である。MiTo以降ややデザイン文法が変わってしまうわけだが、147、156、GT、加えて159、ブレラのインテリアデザインには強く強く憧れたものだ。あおさんの147の車内は相応に草臥れてはいるが、イタリア車特有のオーラはまったく色褪せていない。
動き出してみる。助手席のあおさん、「とにかく(現代のクルマと比べると)走らないんで、ご注意を」。いくつかのコーナーを走り過ぎてみると、確かにボディはゆるい。挙動もある意味のんびりしている。しかし加藤店長やあおさんが愛を込めて語る「走らないですよ」は実感できない。いや全然走るし。速い遅いではなく、加速が(昨今の小排気量エンジン+ターボに比べれば)穏やかなのは確か。その意味では確かに速くはないと言える。ただそれは筆者が時々書く「必要充分の一割増し」ではないというだけで、得られる速度と旋回性能、制動性能は高い次元でバランスしていると思う。味わい深い。
それよりも相変わらずセレスピードに四苦八苦。度重なる500の試乗でフィアット版のデュアロジックは体得したと思っていたが、147のセレは、なんというか、遅い(笑)。牧歌的ですらある。試乗中セレは99%マニュアルモードで操作していたのだが、1速から2速へのシフトアップの待たされ具合は思わず「えっ?(まだ??)」と声が出る程遅い。つまりセレはコツコツとアップデートされていたのだ。この147よりもかつて試乗した159の方が、そして超初期型のリニューアル500の方が、そして最近のTwinAir500の方が確かに洗練されている。
ボディ全体のゆるさ、鷹揚なシート、牧歌的なセレの変速スピードなどが渾然一体となると、確かに現代の同格車と比べて「走らない」。しかしそれらを雑事と思わせるのがツインスパークエンジンである。こいつこそ現代の同格車が絶対に持ち得ない美点だ。そのうなりは、なるほど「官能的」と言える。3,000rpmより上に行くとテノールの雄叫びが高まっていく。こいつをもっと聴きたい!回すしかない!おりゃおりゃ!となるのは自然の摂理である。それは低燃費・低公害であることを唯一絶対解とするような昨今の風潮とは真逆のベクトルだが、自動車運転によって得られる根源的な悦び「自由自在感」や「人の能力を超えた移動速度」を濃厚に味わうことができる。147に乗ってタコメーターを見るのは、燃費優先で低回転を保っているかを気にするためではなく、エンジンの咆哮と適度な運動性能を味わうために高回転域を維持するためである。
走り出してから気がつくのだが、速度と回転、ニ眼メーターの針の動きが精密感に溢れ大変好ましい。「このメーターの針の動き、いいね!」と言ったら、あおさんにもalfa_manbowさんにも「そこ??」と突っ込まれた。しかしもはやVW ゴルフですら液晶画面にメーターの絵を映すご時世である。メーターは物理的に針が動いていてほしいし、その動きは濃厚精緻でいてほしい。
反面シフトパドルは気になった。147はのシフトパドルはステアリング一体型。筆者はこれが少し苦手だ。ハンドルを回しているうちにどっちがどっちだかわからなくなってしまうのだ。大きめのパドルがコラム固定式で備わっていてほしい。
結局セレには手間取ったが楽しい試乗だった。そして旧オーナーのベタ褒めの理由も垣間見えた。147が楽しい理由はふたつある。「能動的運転体験」と「異文化との濃厚な接触」だ。
「能動的運転体験」と言ったって運転はふつう能動的なものじゃないか!と思われる方が多いだろう。あおさんがおっしゃったように、147は現代のクルマと比べると走らないし曲がらないし止まらない。そこを運転手が補ってやる必要はある。つまり漫然と運転させてはもらえない。その点だけで比較すれば筆者の老母が乗るトヨタ パッソ(の1リッターの方)と変わらない。しかし147は補って走るとその努力に相応しいリターンがある。そのリターンが想定一割増しなのだ(笑)。「え?ちゃんと走らせるとこんなに楽しいの?」なのだ。動き出す、加速する、曲がるために速度を落とす、そして曲がる、旋回途中の正しいタイミングで再び加速させる、旋回を終えて直進に戻る、あるいは次の旋回に備える、適切に停車する。147が147らしく動作するには147が求めるように操ってやる必要がある。その許容幅は狭い。しかしその狭いスイートスポットにハマった時の挙動は痛快だし、機械という無機物と心が通いあう快感が確実に得られる。
もうひとつの「異文化との濃厚な接触」も重要だ。インテリア検分で書いた、静止状態・着座しただけで感じるオーラ。そして「能動的運転」を求めてくる機動。これらは大方の国産車とはまったく正反対のベクトルだ。視認性・操作性よりも収納ばかりに執心する設え、操作の安楽さと低燃費であることだけを追求し、可もなく不可もない機動。そういう自動車のオーナーが147を操ってみれば、五感のすべてで「こりゃ文化が違う」と思わずにいられないだろう。何を優先し何を切り捨てるのかという基準が、国産車のそれと(下手をしたら昨今の輸入車とも)まったく異なっている。せっかく輸入車に乗るのなら、異文化をなるべく強く意識したいと筆者は考える。その点147は百点満点だ。
プン太郎も漫然とは運転させてもらえないクルマではある。だがそれはもっとヒリヒリした世界というか、気軽にすごいところまで行けるが、しっかり運転しないと命の危険がありますよという緊張感が背景にしっかりある。幸か不幸か147はそういう緊張感はない。オーナーはきっとそういうところまで含めて惚れてしまうのだろう。あおさんありがとうございました。
※
直後にalfa_manbowさんのジュリエッタ QV(MY2015_TCT)を再び運転させていただいた。「時代が違う!(by 同乗されたあおさん談)」これに尽きる。TCTのシフトチェンジを間違ってホイールスピンさせてしまいました。すんません。